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  五條楽園って其の弐

91: 名前:ピーナッツ投稿日:2002/07/17(水) 01:06
「粋な旦那」って、わたしから言わせれば、「ただのもてない男」
だって、粋な旦那はお金でsexは買わないでしょ?
結局、女から見て、粋な男はちゃんと恋愛から入る。そんなもんです。
女の子育てる前に自分が育たなきゃ。もっと恋愛して。

92: 名前:T2投稿日:2002/07/17(水) 01:21
湯女さん
たまたまレスがとぎれただけで、名前の長さは関係ないんでございますよ (^-^;
レスがつけば、基本的には上に上がります。ただ、上がってしまって目立つというのは、
見方を変えると「荒らし」に目をつけられやすいわけで、わざとスレの位置を上げずに
その場にとどめる、という手法があります。これが「sage」です。
sageをチェックしても、下がるわけではなく、他のスレが上がったときに相対的に位置が
下がる、というだけなのです。また、ひとりが下げても他の人がsage設定をせずにレス
すれば、一気にageてしまうことになる訳です。
五條スレはただでさえよくレスのつくスレなので、なかなかsage効果を得られないのが
難点と言えるでしょう。
五條と関係ない話なのでsageます。

>>88 (長いお名前なので省略)
エールありがとうございます。私も精進させていただきます <(_ _)>
最初の2名はフルネーム?

93: 名前:T2投稿日:2002/07/17(水) 02:32
ピーナッツさん
「旦那になること」の本来の意味は、釈迦に説法でしょうから割愛します。
旦那ってのは、恋してはいけない相手に恋するようなものです。それだけに、自分勝手な振る舞いは
決して許されない。お茶屋のお母さんをはじめ周囲の方々に礼を尽くし、みんなの合意を得た上で、
晴れて得られる特権な訳です。それは、必ずしもセックスを最終目的とするものではない。
経済的なハードルも勿論ありますが、なにより男としてその女性を本当に大事にできるかどうかに
かかっている訳で、そのある種一途でストイックな姿勢は見習うべきところ多だと思うわけです。
ゆえに旦那とは、そのへんに限って言えば寧ろ「モテる」存在ではないかと思います。
今日の五條楽園において、このような「旦那イズム」を持ち出すのは相当無理がありますが、
五條スレの常連にとってそんなことはとっくに承知の助なのです、多分 (^_-)

「女の子育てる前に自分が育たなきゃ」というご意見は、これはもう至極ごもっともですね。

94: 名前:湯女投稿日:2002/07/17(水) 11:29
お名前の事、大変失礼しました。ごめんなさい。
T2さん、「粋な旦那」に関して、見事に説いて下さっています。
女の子を育てる前に時分が育たなきゃ。というのは、お客、女の子両方に言えます。
以前このスレで誰かが、若い時に遊びに行って、いろいろと教えて貰ったと書いていらしゃいましたが、新しいお客様にベテランの姉さんを呼んで遊び方を教えてもらい、逆に、新しく入った女の子には、古いお客様、お馴染み様をつけてお客様に教えて貰うのです。
馴染みだからと言ってみんながみんな、紳士的とは言えないので、そこはお客様も選ばないといけませんが。
粋な旦那は魅力的な方が多く、個人的にも社会的にも多くの経験を積んでいらっしゃるのでしょう。
「お金」の持つ価値も意味も充分理解している人だと思います。

95: 名前:mi投稿日:2002/07/17(水) 14:19
ピーナッツさん。
「姫」としての発言、心に痛み入ります。
多分、お若いのではと推測致します。
まだまだ「恋愛」の美しい所しか見ておられないご様子ですが、年輪を重ねれば、「悪しき面」もお解りになるのでは。
「恋愛」は、「独占欲」を生み出し、その結末、「憎悪」に転じる事もまれではありません。
最近の事件を見ていれば、それを如実に現しているとはお感じになりませんか?
そんな「酸いも甘い」も噛み分けると、「恋愛」のもつ、熱い情熱には、心を引かれない訳ではありませんが、それを「遊び」と割り切る事で、男の「性」を飼い慣らす事も、生きる上では大切な事と、悟る様になりました。
「その昔・・・・そんな事もあったなぁ。」と、自慢話で酒を酌み交わして、それを「肴」に又、酒を勧めて酌み交わす。
ここに集っている輩は、そんな奴ばかりなのです。

扇大臣の旦那のスキャンダルは、まだ、記憶に新しい所です。
あの時、若手の芸能人なら、もっと話題になったと思いますが、モノの見事に数日で消えてしまいました。
それは、大臣の「粋な女房」の一言が、あったからかも知れませんが、それより、その事自体が、伝統の「遊び」の一環だったからです。

「粋な旦那」とは、「置屋」と「お茶屋」と「芸妓」の手のひらで、面白可笑しく、遊んで、後腐れのない「男」を言うのかもしれません。
そして、その代償は、「花街」が何一つお客に関して、語らない事なのです。
それが、「粋な遊び」の掟だと思っています。

96: 名前:名無しさん投稿日:2002/07/17(水) 21:24
美化し過ぎじゃないですか。
五条楽園の桜、高瀬川の風情であろうが
お茶屋のお母さんとのやりとりに和服姿の芸子、
それを楽しむのは客の自由だが、ヘルスやソープと何ら変わりない。
金と嘘でまみれた世界に違いない。五条楽園はそれをそんな汚い
ものを「粋」だとか、「旦那」とかきれいなオブラートに包んで語るんだよな。
粋に遊ぶやつはどこでもいると思うけど。五条楽園と祇園の御茶屋
遊びを一緒にしてどうするの?

97: 名前:mi投稿日:2002/07/17(水) 22:38
>96 名無しさんへ。
確かに、美化しすぎです。そうやって、そう思いこんで遊んで居るのです。
それは、「客」の自由でよね。
「粋な旦那」の定義が必要なのでは無く、如何に、楽しく遊ぶかが、問題なのです。
「金」とか「嘘」とか、「欲」とかに、私自身がまみれていて、私が汚いから、美化したいのでしょう。
ヘルスやソープを良くは知りませんが、「秘守義務」を始めに、近寄りがたいところがあると感じます。
私は、経験上、「祇園」も「五条」も同じだと感じたから、そう書いただけですが、違いましたでしょうか。
但し「五条」と書くと語弊があるかもしれないので、「五条」のとある「お茶屋」と「芸妓」は、と言う意味合いでと解釈下さい。
まだまだ、お若いのに「祇園」でも、お茶屋遊びをされているご様子、是非一度ご一緒出来たらと思います。
出来ましたら、「名無しさん」では無く、ハンドルネームをお書き下さい。
他に紛れる様な意見の述べ方は、失礼だと感じましたが。

98: 名前:名無しさん投稿日:2002/07/18(木) 00:43
近寄りがたいっていうか、ただの遊郭。
飛田とか松島と一緒。五条のある置屋は昔、松島でも商売
してはったらしいで。システムが祇園の御茶屋遊びと似ていなくも
ないが、一緒にしたらあかんで。五条に勤めている女性は
訳あり多いし、年齢的に他風俗から行き場の無くなった人の
溜まり場。最近は若い子も増えたらしいがね。

99: 名前:名無しさん投稿日:2002/07/18(木) 00:46
五条に行った。
おかんみたいなおばはんやった。
風情を楽しむ気分じゃなかった。

100: 名前:T2投稿日:2002/07/18(木) 03:17
>>96
「粋な旦那」論は、このスレッド風のマナーアップスローガンみたいなもんです。
もちろん、言ってる自分自身にも戒めの意味で言いきかせていますが(笑)

>>98
五條橋下・七條新地に始まるこの街の歴史は、図書館で調べるとけっこう
興味をそそります。資料探しには結構難儀しますが。
先週「京の花街」という、昭和50年代に書かれた本を見つけまして、これには
五條楽園に関するかなり詳しい記述がありました。

101: 名前:mi投稿日:2002/07/18(木) 09:39
祝、100レス達成ですね。
T2さん。いつもながら、継続しての資料集め、敬服致します。
「五条楽園」の歴史等々を紹介した、HPを立ちあげ様と、お約束していましたね。
今年の後半の、第一目標にして、取り組みたいと思います。
次回、お会いする時、(もうすぐですね。)その話で盛り上がりましょう。
京都では、昨日「祇園祭」の「山鉾巡行」が悪天候の中で行われました。
昔から、「祇園さん」が終わると「夏」やと言われてきましたが、ここ数年は、気象の具合で、雨の巡航が多いようです。
しかし、人で賑わう、宵々々山、宵々山、宵山の夜は雨も降らずに、私も2回、繰り出しました。
昨年から本格的に復活した「神興際」が、夕刻の八坂神社の前で、行われました。
静かな「祭り」のイメージの「祇園祭」の中で、唯一、動的なと言うか、3つの御輿の担ぎ手がぶつかり合う、荒々しい祭りの風景でした。
今年の宵山は、八坂神社から歩き出して、祇園、新橋とそぞろ歩いて、新しい「祇園祭」の楽しみ方を発見しました。
鴨川から東の、歓楽街と祇園付近は、あまり観光客の姿は目立たなく、花見小路などのホステスさん達が、浴衣や単(ひとえ)仕立ての和服を、それは素敵に着こなして、同伴出勤の姿を見かけました。
連れが、「上手にきはりますなぁ」と、言う程に、祭りの喧噪な中の、私の好きなシーンに思わず見とれて仕舞いました。
ほんと、和服の似合う女性は、色っぽい!

京都以外でご覧の方々からも、Mailを頂いていますので、「祇園祭」の風景を少しだけお届けしました。
来年は、是非とも、「祇園祭」に合わせて、遊びに来て頂ければと思っております。
次は、24日の花傘巡行です。

102: 名前:湯女投稿日:2002/07/18(木) 20:12
何もかもいっしょ、にしたら、黙るしか無いなぁ。
京都にあって、高瀬川が流れていて、お茶屋と置屋の形態で営まれていて、女の人は着物で、となれば、それだけで余所と違うと勘違いしたくなります。
それぞれ、その人の好きな勘違いで満足すれば良いのでは?勘違いだって、誰もが分かっているのですから。
「おもちゃ」って言う映画をビデオで観ましたが、面白かったですよ。昭和34年頃の話で脚色はしてあるでしょうけど、あれが本当なら、ちょっと衝撃的ですね。
祇園などの花街に少ぅし親近感を覚えました。

103: 名前:人間魚雷投稿日:2002/07/19(金) 14:03
初めて、書き込ませてもらいます。
質問ですがなぜ、ここで働いている女性達のことを「芸妓」と呼ぶのでしょうか?
結局は風俗嬢と同じだと思うのですが...。
「風俗嬢」と呼んだら駄目なのかな?

104: 名前:mi投稿日:2002/07/19(金) 14:30
人間魚雷さん。
ご質問に対してですが、大きな意味では「風俗嬢」の括りに入るとは思います。
「五条楽園」の歴史に関しては、差し控えますが、その生い立ちの過程で、「湯女」さんが書いていた様に、「お茶屋」と「置屋」の形態で営業される様になりました。
従って、そこで、接待をする女性を「芸妓」と呼ぶ様になったのです。
「五条楽園」の「お茶屋」の玄関に掲げられている「お茶屋」の鑑札は、祇園を初めとする、京都の花街で営業している「お茶屋」と同じものです。
当局の分類上は、祇園のお茶屋も、五条のお茶屋も同じです。
しかし、その中身は、元々「遊郭」であった経緯から、今に至りました。
当局の分類が「お茶屋」であるから、数年間は「洋服」の時期もありましたが、「芸妓」は全て「和服」になり、「三味線」の練習が義務着けられています。
「五条楽園」で働く女性を「風俗嬢」と呼びたければ、そう、呼ばれても間違いでは有りません。
それは、人間魚雷さんのお好みでしょう。

105: 名前:>96投稿日:2002/07/19(金) 16:50
>96


【五条楽園】
宝暦11年(1761)許可される。
当初の名前は五条橋下。近くの七条新地の出稼ぎ地と認知されていた。(2001/10/28)
宝暦11年以前から存在し、五條坂遊廓とも呼ばれ平影清も遊んでいた由緒ある遊廓。(2001/11/10)
【祇園遊廓】
付近の石橋架け替えの費用を得る為に茶屋株を公許したことにより、祇園の遊女が公許となる。(2002/4/21)
寛政2年(1790)遊女屋を公認とし、公課を命ず。(?)(2002/4/21)
嘉永4年(1851)、天保年間に廃止された祇園に再興許可。(2002/4/22)
明治6年(1873)、女紅場を設けられる。(2002/5/9)
【先斗町遊廓】
延宝2年(1674)、五軒の揚屋茶屋が許可。
正徳2年(1712)、生洲株が認められ茶屋旅篭屋が並び、茶立女と名称の遊女を置く。
文化10年(1813)に芸者という名目が公許される。(2002/6/22)
【宮川町遊廓】
建仁寺の寺領であった為、古くは建仁寺新地と呼ばれる。
一丁目は寛文6年に、二丁目から五丁目は寛文〜延宝年間に、六七丁目は元禄十二年開ける。
正式に茶屋渡世を許されたのは寛延四年であったが、10年の期限付きであった。
その後継続を要請しつづけ、明和7年茶屋株の許可を受ける。(2002/6/25)

106: 名前:人間魚雷投稿日:2002/07/19(金) 20:05
>miさん
どうもありがとうございました。

107: 名前:遊女投稿日:2002/07/19(金) 20:36
なぁんだ、全部元は一緒なんだ!
そういえば、宮川町だったかの芸妓さんのホームページで、一頃前までは、踊りや鳴り物の芸をする妓よりも床を共にする妓の方が格が上だとありましたね。
時代の流れで、二つに分かれたって事ですね。長い歴史があるのですね。
じゃぁ、「旦那さん」は連綿と続いて来た遊びの、次代への伝承者の任を担っているってふうにも考えられますか?
「芸妓」を風俗嬢と一緒にするのは、なぁーんにも知りません、って事をひけらかしているようなもんだ。

108: 名前:飛び入りの無名芸人投稿日:2002/07/19(金) 23:11
105&107に対して、拍手喝采!

109: 名前:名無しさん投稿日:2002/07/19(金) 23:47
ついでに五番町、島原についても教えて !
あっそっか、105ではお茶屋と置屋の形態をとる
遊郭街を挙げて下さったのですね。
全国の多くの遊郭街はソープ街として
残っているところが多いですが、
五条の昔からのお茶屋と置屋の形態をそのまま
残しているところはすごいですね。
五条の遊びはソープにも似ている面もある。
ソープでは、入浴のお手伝いをするのが表向きの
コンパニオンの仕事。(入浴料+サービス料)
五条では、芸を披露し宴席に付くのが表向きの
コンパニオン(芸子)の仕事。(席料+花代)
けれどいずれも自由恋愛としての売○をおこなって
いるわけだから。

110: 名前:高見弟投稿日:2002/07/20(土) 00:18
とにかくなんにでもイチャモンつけなきゃ気がすまない
人っているからね、まぁいちいち怒っても相手にしても
仕方が無い。

111: 名前:T2投稿日:2002/07/20(土) 04:49
島原は、ここ見るといいかも。
http://www.asahi-net.or.jp/~nt6k-sghr/k_scene/shimabara/shimabara.htm [source] [check]

祇園や北野、そして五條楽園の前身である七條新地・五條橋下(はしした)などで
遊女屋営業が公的に認められたのは1790年(寛政2年)です。
七條新地の遊郭としての起こりは1717年(享保2年)、「煮売り屋」としての営業が
認められた際に、一軒あたり接客婦として酌婦二名と見習いさんを置いていたことが
分かっています。また五條橋下のほうは、1761年(宝暦11年)に北野上七軒の
真盛町から南京極町へ「茶屋株借受」という形で営業を開始したのが始まりとなっています。
一方、祇園の茶屋営業が公許されたのは1665年(寛文5年)、先斗町での料理店経営
許可が下りたのは1712年です。

寛政2年6月、寛政の改革によって唯一の公許遊郭である島原以外の新地等での売春行為が
一斉摘発され、殆どの遊女が島原に取り上げられました。明治5年に京都府が編纂した
「京都府下遊郭由緒」には、「祇園町同新地ヲ始茶屋株等隠売女千三百人余傾城町江婢ニ
差下相成所々之茶屋株一時被差止(中略)」とあります。
その数ヶ月後には、島原の遊女が出稼ぎという名目で新地に赴き、口銭を島原に上納する、
というシステムが構築されました。すなわち、幕府は全ての遊里を島原のコントロール下に
置いたわけです。この体制は、明治維新まで続けられました。

誤解を恐れずに言うなら、祇園も五條も、この時点で風俗営業のスタートラインを
横一線にされた、ということですね。

112: 名前:mi投稿日:2002/07/20(土) 14:29
レスが100を超えて少し気になったので、以前のスレッドを久しぶり訪れてみました。
時期的には、100のレスは、8月後半でした。
1回のフォーラムにご参加の方は、覚えておられると思いますが、Fooさんから提言があって、そのことで、スレが盛り上がった直後でした。
T2さんの歴史をひもとくレスには、感服致しました。
しかし、一時的にでも「島原」に遊女が集められ、その後、今の花街に戻されたのは知りませんでした。
遊郭営業の何で、ピラミッドのシステムが構築されていたのは、大変驚きました。
つまり、幕府にとって「遊郭」は重要な財源だったと理解してもよいのでしょうか?
今で言う「公営ギャンブル」に位置しするでしょうか?
近畿圏内のTV局では、つい先日、「島原太夫」の特集をしていました。
太夫さんが、自分で新聞作って、発行しておられるとか。
そう言えば、その新聞の話を、以前芸妓さんに聞いた事が有る様な・・・?

>110さん、私に対するご忠告ですよね。ありがとうございます。
この「五条楽園って」も前のスレから通算して、1100以上のレスを数えました。
T2さん、K3さんを初めとするフォーラムメンバーは、「またやっとるわ!」とあきれ顔なのが、目に浮かびます。
少し、気合いが入りすぎですか?
でも、この年になっても「血気盛ん」は、私のトレードマークですね。
今後とも、お付き合いを宜しく。

>108さん。ホント、拍手喝采です。

113: 名前:T2投稿日:2002/07/20(土) 18:06
miさん
島原は、国の直営というわけではなかったので、遊郭の繁栄がそのまま幕府の財政を潤す、という
ことではなく、あくまで社会秩序の維持という観点からの施策とみるのが妥当でしょう。
今日でも公安委員会の許可がないと風俗営業ができないのに似ていますね。

島原の最盛期は1690年(元禄3年)頃で、198軒のお店に1715人の従業者を抱えていたと
いう記録がありますが、18世紀半ばには客の多くが新地に流れ、1802年(享和2年)に京都を
訪れた滝沢馬琴は自著「羇旅漫録(きりょまんろく)」のなかで、「島原の郭、今は大におとろへて、
曲輪の土塀なども壊れ倒れ、揚屋町の外は、家も、ちまたも甚だきたなし。太夫の顔色、万事祇園には
おとれり」と述べています。また、その要因として「道遠くして往来のわずらわしきゆえなり」と
分析しています。

島原も手をこまぬいていたわけではなく、1725年(享保10年)には夜見世営業を開始、1732年
(享保17年)にはそれまで東口一ヶ所しかなかった郭の出入口に西口を新設、さらに上之町に芝居小屋を
建ててこれを女性にも開放するなどの営業努力を試みますが、新地に移った賑わいを取り戻すには至らず、
江戸幕府の風俗街隔離政策は抜本的な見直しを迫られることになり、寛政の改革でそれが実行に移されたと
いうわけです。

五條楽園の歴史とも密接に関係する話ですが、一応sageときます。

114: 名前:mi投稿日:2002/07/20(土) 18:39
T2さんへ。
フムフム。
そうか、秩序か・・・。
今でも、島原周辺は、活気のある街とは言い難いですね。
歴史的な「価値」は有るかも知れませんが、京都の市内だと言うのに、区画整理がされておらず、入り組んだ構造のままで現在を迎えて居ます。
近くには、中央市場が、梅小路公園(機関区)、西本願寺と、専有面積の大きな施設が相次ぎ、人口は多くはありません。
と、言う事は、それだけ、開発されて居ない場所だったと言う事でしょうね。
西陣の様に特別な産業も無かっただろうし・・・。

祇園新地周辺に人が集中する事により、立地条件の悪さに拍車が掛かり、消滅したのですね。
このスレで数回ほどは話題になった「五番町」は西陣の傍らに位置し、立地条件は良かったのに、赤線廃止と共に無くなった様な事を聞きました。
これは、純粋な「赤線」の形態であったからだろうと思っています。
近くには「宮川町」も有る事だし。
こうして、歴史を教えて貰いながら、色々と考えると、五条楽園が生き残れたのは、「運」が良かったからでしょうね。
微妙な立地条件が幸いし、その形態が幸いしたのでしょう。

それにしても、今日はお休みでしたか?
今夜は、ゆっくりとお休みください。健康第一です。

115: 名前:無名芸人投稿日:2002/07/20(土) 22:11
近松、西鶴、荷風、谷崎、芥川、太宰、三島…、春団治、寛美…。
彼らは単なる好色家、遊び人、変人、変態だったのか、それとも類稀なる知識人、文化人だったのか?色々と意見の分かれるところでしょう。
少なくとも私は、後者でありたいとは思っていますが、よほどの功績名跡を残さないと、やはり世間は前者としか見てはくれないでしょう。
結局大事なのは自分自身の心意気だと思います。頑張り…、いやいや、気楽に行きましょう。

それにしても107はいかにも京都らしいですな。「京のぶぶ漬け」を彷彿とさせますな。
素晴らしい!改めて、敬服!

116: 名前:遊女投稿日:2002/07/21(日) 00:55
箒を立てすぎてしまったかしら?
今、島原の太夫は3人で、新聞を発行しているのは「司太夫」さんです。
そして、唯一営業しているのは、置屋の「輪違屋」でしたね。
で、京都では「太夫」。東京へ行くと「花魁」だとか?
彼女達の仕事は?やはり、お相手して貰えるのですか?T2さん。
あの衣装、大変でしょうねぇ。

117: 名前:T2投稿日:2002/07/21(日) 03:14
遊女さん
揚屋である「角屋(すみや)」がもう使えませんから、島原の当時の遊びを完全に再現するのは
恐らく無理でしょう。輪違屋は単なる置屋であり、太夫の所属事務所に過ぎませんし。

今でこそ太夫は芸の披露を主な仕事にしていますが、カテゴリーとしては娼妓に属します。
ただ、島原の遊女にもランク付けがあり、最高位の「太夫」から、天神、囲、半夜と、4段階の
ステータスがありました。島原に現存する「揚屋」は、太夫だけが使える遊興場で、和歌や俳諧、
お茶にお花と、一種の文芸サロンのようなテイストがあったとされます。多くの一般客は、茶屋
(水茶屋や料理茶屋)に天神や囲を呼んで遊ぶのが普通で、今日の時代劇ドラマでしばしば目にする
濡れ場のシーンは、このあたりを舞台にしているのではと思われます(笑)
さらに下級の半夜は、置屋のなかで客を取っていたようです。

太夫は容姿のみならず高い教養を持ち、芸能にも秀でており、自分で客を選ぶことさえ許されていた
ほどですから、かなりノーブルな魅力があったと言えるでしょう。風俗嬢とはちょっと言えないですね(笑)

miさん
寛政の改革で遊女が片っ端から島原にかっさらわれたのち、島原からの派遣という形で五年間の
遊女渡世が認められたのは、祇園町同新地、二條新地、七條新地、北野上七軒の四ヶ所だけで、
五條橋下は含まれていませんでした。しかし、五條橋下については「七條新地最寄の訳」という
何とも単純な理由でもって、七條新地からの出稼ぎ地として、これまた公然と営業できるように
なったのです。この幸運がなければ、その後の七條新地の規模はもっと小さくなってしまったに
違いありません。
もともと五條橋下と七條新地は、営業面でも激しいつばぜり合いを演じてきた間柄なのですが、
次第に七條新地が五條橋下を庇護下に置くような形で同一地域として扱うようになってきた構図が
浮かんできます。

明治5年に京都府へ提出された両新地の由緒書には、双方の書類に同一の責任者名が記されていた
ことから、この時点で両新地は実質的には一心同体であったと考えられます。公に同一地域と
見なされるようになったのは大正元年の京都府令第六号で、七條新地の区域指定の中に五條橋下の
廓が全て含まれる形になっており、この時点で五條橋下は完全に七條新地
<省略されました> [全文を見る]

118: 名前:K3投稿日:2002/07/21(日) 14:58
T2さん
ご苦労様です。2日間程スレ見なかったらすごいことになっていてびっくりしました。

私も調べたかったんだけど、なかなか手が回らなくて。
祇園も五條も元は良く似ていたということですね。
要はどこかの時点で祇園を始めとした色町は芸の方向へ行き、
五條はやや違った道に入ったということですか。
それは昭和に入ってからですかね。

119: 名前:人間魚雷投稿日:2002/07/21(日) 16:26
また、聞きたいことがあるのですが五条楽園にはギャル系というか茶髪の浜崎あゆみみたいな感じの女の子っていないのかな?

120: 名前:K3投稿日:2002/07/21(日) 17:33
人間魚雷さん
私の知っている限り、ギャル系、コギャル系と言われるタイプの女の子はいないと思います。
あまり経験はないけれど、ファッションにいるような感じの女の子は知りません。
やはり一日中着物を着ていなければならない(置屋での待機時間中も含めて)とか、
三味線を習うとかいうのも理由かもしれません。
でも美人の20台の芸妓さんはいますよ。この前、お相手してもらった20台のNさんは
ギャル系とは言えないと思うけど茶髪で、小さい頃、日舞を習ったことがあるそうです。


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